早いもので25年になります。
昭和60年8月12日夕方、日航123便の状況が刻々と報道されていました。 ヘリコプター団の上層部でも情報収集に努めていたと思いますが、いわゆる現場(第一線)の我々は知るよしもありません。
当時、災害等が発生した場合の担当は予め指名されており、この時たまたま私の所属する飛行隊が当番になっていました。
そのため一旦帰宅したものの直ちに呼び出しを受け登庁、出動の準備に掛かりました。
その頃には遭難はほぼ確実、大まかな墜落地域も判明していましたので携行する装備、地図の準備、地形の研究等の準備を整え出動に備えました。
出動の要請も命令もその時はまだ無かったと思います。無論この時点での現場での救助活動は当時の装備では不可能でした。
翌13日は日出前に木更津離陸(大型ヘリV-107×4機位だと思います)、一旦群馬県の相馬が原演習場に着陸、その場で立川基地の東部方面航空隊が撮影したビデオテープで墜落現場の映像を目にしました。
事故現場にはヘリの離発着可能な場所が得られないので(後日ヘリポートが作られましたが)空挺隊員をワイヤーケーブルで降下させることになり、習志野駐屯地にトンボ返り、事故現場に空輸しました。
その際に撮影したのが以下の写真です。
現場上空で感じたのは、「あの大きなジャンボ旅客機がこのように粉々になるのかと」言うことです。旅客機の形状をとどめるのは僅かに主翼の一部と可成り離れた場所に落下した尾翼(水平安定板)だけ、後はゴミ捨て場の紙屑のように見えました。
そして、機体の破損状況や火災が発生していることなどから4名の生存者があったのはまさに奇跡と言う他ありません。
機体が最後にストップしたところ、この中に4名の方が生存していた。
画面左端に尾翼(水平安定板)が見える。
空挺隊員をウインチケーブルで降下させ、続いて上野村小学校から消防隊員を空輸しました。
昼頃だったと思います。無線で「生存者がいるぞ」の一報が入りました。 そして同僚のヘリで吊り上げ病院に空輸、救助活動の象徴的な映像となりました。
私は現場の状況は直接目にしてはいません。しかし想像を絶する惨状だったようです。
現場の任務を終えた空挺隊員を回収したことがありましたが、ヘリから降りるや近くの藪に走り込みゲーゲー(大変なものを見てしまったと)
その後何度も事故現場への交代要員の輸送、食事等物資の空輸任務を行いました。
8月末頃だと思いますが、当時の中曽根首相を事故現場上空へご案内しました。
事故原因については一応の結論らしきものが出ているようですが、果たして十分解明されているのでしょうか?
航空事故の特性として関係者が死亡してしまった、機体の損傷がひどくて究明が難しい、etc でうやむやにされる(一寸言い過ぎ)ことが多い気がします。
私もパイロットの端くれとして、決して少なくない先輩、同僚、部下、後輩を事故で失いました。
私にできるのは冥福を祈ることぐらいしかありませんが、しっかりした原因の究明と事故防止への対策が無ければ彼らは浮かばれないでしょう。
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